考える場所
盛秋の京都。
インスタ映えが価値である昨今、スマホ片手にきている人間は皆、同じ目的のためにきているように見えてしまう。
自分も、せっかく京都を訪れるなら桜か新緑か紅葉と決めている点、見栄えする時期に行こうとしていから同じではあるが。
紅葉に限らず、自分が訪れる場所の条件はある程度決まっている。
ゆっくり落ち着ける空間であること。
他人とじっくり話をしたいからである。
そうか
「考える時間」じゃなくて、
「考える場所」がなかったんだ。
その場所に、何もない事で初めて、「考える場所」たりうると考える。
何もないと、話題の対象は自然と自分たちのことに向いてくる。
遊園地やスポーツ観戦、注意を引くものがあってしまうと話題はそちらに靡く。
何か思い出したくない事があるなら、話は別だが。
そんな場所は退屈、と言われると困るものの、何を感じ、何を考えているのか、
自分のことを話し、相手のそれにじっくりと耳を傾ける友人が周りには多い。
そして京都には、自然と思考の対象が己のうちに向かう場所がある。
今を生きることについて
働いていると、よく物事を逆算的に考える事を求められる。初めにそのタスクの締め切りを決めることが重要で、そこさえ決めれば自然と算段を考える。期日が迫れば自然とケツが叩かれる。物事を前位に進めるために理にかなった考え方に思う。
要するに、全てが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標の方から現在為すべきことを規定するかたちになっている。こうした前のめりの姿勢はだから、実のところ、何も待ってはいない。未来と見えるものは現在という場所で想像された未来でしかない。未来は決して何が起こるかわからない絶対の外部ではない。その意味で、「プロ」に象徴される前のめりの姿勢は、実は〈待つ〉ことを拒む構えなのである。待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。
「待つ」ということ 鷲田清一
偶然に期待する。いつしかその感覚は薄れていた。偶然に期することは、ある種の無駄と捉えられかねない。今まさに行なっている行動が、なんの為に行われているかを明確に意識するようになった。
仕事中だけでなく、その意識は休日にも侵入してくる。掃除や洗濯を除いて、今日何をしようかの判断は、未来の理想に少しでも近ずけるかに委ねられる。いつの間にか、今を生きることは未来のために生きることになっていた。その思考が変わらなかった時、未来のその時になった自分は、果たして今を生きていると言えるのだろうか。永遠に未来のために生き続けるのだろうか。
その一方で、今を純粋に楽しむこともある。友人とお互いの考えをじっくりと交わすこと。旧友たちと毎年同窓会を開くこと。食事をゆっくりと味わって食べること。こういった瞬間瞬間こそ、本当に大切にしなければならないことなのかもしれない。
文章を書く上で
即ち小説の文章は、表現された文章よりもその文章をあやつる作者の意慾により以上重大な秘密がある。作家の意欲は表面の文章に働く前に、その取捨選択に働くことがさらに重大なのだ。
「意慾的創作文章の形式と方法」坂口安吾
小説の本質がその華麗な文体にあるとする考えに対し、安吾は作家の表現以前に、なぜその事柄を表現しようとしたのかという、取捨選択の意志が重要であると説く。
愚劣な文章ほど、浅はかな理由で取捨選択されたことに何枚もの項を費やすものだという。
前述のように、まず意欲が働いてのち、つづいて表現が問題となる。
なぜその事柄を表現しようとしたのか(裏を返せば、何を言い当てたくてその事柄を表現したのか)があり、次点として表現が問題になってくるという。
小説の主体を明快適切ならしめるためには、時として各個の文章は晦渋化を必要とされることもありうるのだ。そして描写に故意の歪みを要するところに小説の文章の特殊性もあるのである。 .....芸術は、描かれたものの他に別の実体があってはならない。芸術は創造だから。
芸術の一つである小説は、他に別の主体があってはならず、唯一無二のアイデンティティを有してなけらばならない。その前提に立つと、時として小説の文体は難解なものであることが必要とされてくるのである。
最後に文章を創作する上でのポイントをまとめる。
- 何を言い当てたいのか?
- 文全体が唯一無二の総体となっているか?
- 一文一文が、上記二つを満たす役割を担っているか?