今を生きることについて

働いていると、よく物事を逆算的に考える事を求められる。初めにそのタスクの締め切りを決めることが重要で、そこさえ決めれば自然と算段を考える。期日が迫れば自然とケツが叩かれる。物事を前位に進めるために理にかなった考え方に思う。

 

要するに、全てが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標の方から現在為すべきことを規定するかたちになっている。こうした前のめりの姿勢はだから、実のところ、何も待ってはいない。未来と見えるものは現在という場所で想像された未来でしかない。未来は決して何が起こるかわからない絶対の外部ではない。その意味で、「プロ」に象徴される前のめりの姿勢は、実は〈待つ〉ことを拒む構えなのである。待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。

「待つ」ということ 鷲田清一

 

偶然に期待する。いつしかその感覚は薄れていた。偶然に期することは、ある種の無駄と捉えられかねない。今まさに行なっている行動が、なんの為に行われているかを明確に意識するようになった。

 

仕事中だけでなく、その意識は休日にも侵入してくる。掃除や洗濯を除いて、今日何をしようかの判断は、未来の理想に少しでも近ずけるかに委ねられる。いつの間にか、今を生きることは未来のために生きることになっていた。その思考が変わらなかった時、未来のその時になった自分は、果たして今を生きていると言えるのだろうか。永遠に未来のために生き続けるのだろうか。

 

その一方で、今を純粋に楽しむこともある。友人とお互いの考えをじっくりと交わすこと。旧友たちと毎年同窓会を開くこと。食事をゆっくりと味わって食べること。こういった瞬間瞬間こそ、本当に大切にしなければならないことなのかもしれない。

 

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